元優等生のRe:スタートものがたり

元優等生の30代後半までの葛藤と、人生のRe:スタートを決意したその後の日々や想いを綴っています。

不登校娘の6年間

こんにちは
大瀬 優子です!
宮崎県都城市のお隣、鹿児島県曽於市財部町で
ひみつ基地Jya-Jyaとさんすう教室コポリをやっています♪

卒園・卒業シーズンですね。
WEB上でいろんな方の卒園や卒業を垣間見て、思いを馳せています。
この春、卒園・卒業のみなさま、おめでとうございます♪

そして、我が家もこの春、卒業の節目を迎えています。

週のうち2日を鹿児島から福岡のフリースクールへ通い、
週3日2〜3時間程度特認校制度を利用して山村の小規模小学校に通ってきた娘が、
小学校を卒業します。

思えば、小学校に入学して、
1年生は宿題に手こずり(これはわたしがそう思っていただけですけど)、
2年生の秋には学校に行かなくなり、2ヶ月ほど娘と学校行ったり公園行ったりを過ごした後、
3年生は騙し騙し学校に通って、
4年生の春、コロナの学校休校明けから、ほぼ学校に行かなくなりました。

4年生の当初数ヶ月は色々模索したけれど、、、
ふと「この子はこの子なりにやっている。もう学校での対応じゃ、この子は劣等感を持って生きていくしかなくなる。」とわたしの覚悟がやっと決まり、週5の完全フリースクールに踏み切ったのが4年生の夏休み明けでした。
(学校の友達は大好きだったので、学校の好きな授業にはちょいちょい顔を出していましたが)

(こう書くと、わたしが子どもの生き方について考えを切り替えるのに要した時間の長さにハッとします・・・苦笑)


それから1年数ヶ月、当時住んでいた福岡で週5フリースクールに通ったのち、わたしたちの親の決断に付き合わせて、鹿児島へ移住してきました。

移住するときに娘に話したことは、
「悪いけど、わたしたち親の都合で移住する。あなたが、福岡のフリースクールに通い続けたいなら、そうできるように考えるから、どうしたいか考えて。」ということ。

娘にとって、福岡のフリースクールが大切な居場所だったことも、とてもいい環境だったことも十分わかっていましたが、そのときは「まずは、親が、やりたいことをやるって人生を歩む」と心に決めていました。

当時のわたしは、親から、先生から、世間からOKと言われた(言われそうな)道しか歩んだことが無く、しかもそういう道で生きることがとてもとても辛かった。
自分で決めた不確かな道を、楽しく歩んでいくことが、子どもにとってもわたしにとっても必要だと確信していました。
そうしないと、「この子のこれからの人生をちゃんと応援してやれない」と、そう思っていました。

当時5年生だった娘の決断は、「一緒に移住する」ということでした。

まぁ、そうですよね。
「ここ(福岡のフリースクール)に通い続けたいなら、下宿できるように考えるよ」なんて言われてもまだまだ子ども。
ほとんどの場合、着いていくとしか言えないと思う。
当時、娘はまだ思春期というものに差し掛かっている感じもありませんでした。
まだまだ、小学校低学年のような親子関係で、思春期がちゃんと来るのか?と親としては心配もあったくらいだったから。

移住後の娘の居場所については、
宮崎・鹿児島のフリースクールへとか、
今通っている学校とは別の小学校へ特認校制度を利用して通うとか
いろいろ考えてはいましたが、結局、娘の要望として、
「5年生の3月に予定されていたフリースクールの修学旅行へは行きたい」という希望があって、それはそうできるように考えました。
フリースクールで開催するマルシェで、子どもたちみんなで修学旅行へ行くために「30万円稼ぐ!」と娘が思いつき?で言い出して、ほかの子どもたちも乗り気になっていて。子どもたちが稼いだお金が本当に30万まで貯まりつつあったときで、それは親として娘にそうさせてやりたかったから。

ということもあり、ひとまず数ヶ月ならということで、週1で福岡のフリースクールに通うということでフリースクールに通うことをお願いをして、その年の年末〜3月までの数ヶ月を過ごしました。
(おまけですが、当時福岡で習っていた新体操(上手ではなかったけれど大好きで1年生から5年生まで続けた)の3月の発表会にも鹿児島から通って参加しました笑)

そして、そうして数ヶ月通ってみると、全然鹿児島からでも福岡のフリースクールに通えるじゃん!となり、6年生になってからも、福岡のフリースクールに通いつつ、(年度ごとで認められる特認校制度を利用して)全校生徒9人の山間の小規模小学校にも通うというハイパーハイブリッドな通学をしてきたわけです。

なんか、我が子・我が家のことながら、書いてみるとなかなかすごい。笑

でも、『できるかできないかではなく、やるかやらないかだということ。「やろう」と思えば、やり方を考えるだけだ。』ってこと、娘は体感したんじゃないかなと思っています。
当時のわたしは、「わたしがやりたいこと」も「娘がやりたいことも」無理だって思いたくなかったし、無理だって思わせたくなかったから。

でも、それもこれも、たくさんの方の助けがあったおかげです。
ほんと、感謝してもしきれません。
ありがとうございます。

そして、娘本人の力です。
「好きなことして、学校も行かずに遊んでるんでしょ。」と思う方もいらっしゃるかもしれないけれど、それだったら、どうぞやってみてほしい。
人とは違う道を歩むのは、簡単そうに見えて、実はそんなに簡単ではありません。
その分、人とは違う社会との摩擦が生じて話し合ったり、考えたりする時間も必要になるし、誰にもGOと言われていない整っていない道を歩く不自由さもある。思った以上に、時間もエネルギーも必要なのです。

それでも、娘がその道を行くと決めて進んでくれたからこそ、わたしたちも親として精一杯のフォローをさせてもらってきました。そして、だからこそのわたしたち家族の今があります。

苦しいことも、険しい道もあったけれど、その分、自分たちしか経験のできない楽しくドキドキした毎日がありました。振り返ってみても、そして今も、本当に楽しく充実した6年間だった。

こんな日々を過ごさせてくれた娘に、支えてくださった全ての方に、心から感謝しています。

まだまだ書きたいことがあるけれど、長くなりそうなので、続きは次のblogに。

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\かつて子どもだった大人たちへ/
2021年春、
鹿児島県曽於市『財部町』に
みんなのひみつ基地Jya-Jyaをつくろうと思い立ちました。

まだまだ、手付かずのボロ牛小屋だけど、
来てくれる 大人 も 子ども も
「自分らしく」「好きなことをして」過ごせる場所になったらな。
そして、そんな場所がこの世界に広がっていったらな。

そんなふうに思っています。

 

わたしが家族と一緒にひみつ基地をつくり始めた経緯が
キニナル方はコチラから↓

はじめまして、公務員を辞めました  

 

その後2022年5月、
さんすう教室コポリをスタートすることにしました。
そのときの思いはこちらです↓

さんすう教室を始めました