元優等生のRe:スタートものがたり

元優等生の30代後半までの葛藤と、人生のRe:スタートを決意したその後の日々や想いを綴っています。

母とワタシ

母は、祖母(父の母)のことを嫌がっていました。

 直接、文句を言っているのを聞いたわけではないけれど。

子どもながらに、ひしひしと感じていました。

 

祖母は、母に「やめてほしい」と何度言われても、

日中働きに出ている母のために、我が家の洗濯物を畳みに来ていました。

 

わたしや母のことを自慢がてらに人にペラペラ話していました。

 

そのころの母はずっとイライラしていて、

仕事から帰ってくるといつもとても不機嫌で、

わたしはどうしたらいいのかよくわかりませんでした。

 

小学生になると、母はわたしに

「祖母が畳む前に畳みなさい」と言いつけていたけれど、

畳みたくない上に、畳もうとするよりもずっと早く、

祖母が様子を見に来て、畳んでしまう日々でした。

 

母はずっと祖母に対して我慢していて、イライラしていて、

それが、わたしのせいでも、わたしのためでもなくて、

なんだか、とってもさみしかったです。

 

* * *

 

母からは、ちいさいころ、ならいごとをたくさんしたかったみたいです。

 

そんなこともあり、母はわたしに、

5歳になると、ピアノ

小学校にあがると、スイミング

高学年になると、そろばん

中学校目前で、英語

通信制の教材なんかもたくさんあてがってくれました。

 

でも、わたしはどれ一つしたいと思ったものはありませんでした。

辞めたいとか、行きたくないとか言ったこともあったかもしれませんが、

強くそう希望した記憶はありません。

 

母は「ならいごとしたかったのに、出来なかった」というハナシはよく聞きました。

行かせたいのだな、行かないといけないのだなと思っていました。

 

* * *

 

3姉妹の末っ子だった母。

 

末っ子として、姉たちが羨ましかったようで、

わたしに「お姉ちゃん」をとても求めていると感じていました。

 

わたしは、何かを選ぶとき、いつも先に妹に選ばせてあげました。

本当は、先に選びたかったけれど、

「お姉ちゃんでしょ」と言われるのが嫌で。

いつも我慢して、自分が思っているモノではないモノを

妹が選ぶように祈っていました。

 

* * *

 

保守的で心配性な母。

 

小学生になっても、家の横の国道より向こうへは、遊びにいってはいけませんでした。

国道の向こうに、学校も、公園も、友だちの家もあったのに。

 

1、2年生のころは「行きたい」と言って、行ったこともありました。

でも、いつも、母が困った顔をしていました。

不機嫌だったりしました。

 

次第に遊びに行きたいと言わなくなりました。

次第に遊びたいと思わなくなりました。

 

* * *

 

わたしは、育てやすい子だったみたいです。

わたしは、割といつもイイ子にしていました。

 

母は、いつも我慢していました。

母は、いつも不機嫌でした。

 

わたしが我慢して、母を困らせなければいいんだなと思っていました。

 

ただ、母に楽しく過ごしてほしかっただけでした。