元優等生のRe:スタートものがたり

元優等生の30代後半までの葛藤と、人生のRe:スタートを決意したその後の日々や想いを綴っています。

2023年1月の語らう会レポート

こんにちは
大瀬 優子です!
宮崎県都城市のお隣、鹿児島県曽於市財部町で
ひみつ基地Jya-Jyaとさんすう教室コポリをやっています♪

まとめが遅くなってしまいましたが、、、。
さんすう教室コポリで、初めて開催した2023年1月に語らう会のレポートです。
内容が盛りだくさん過ぎてまとまらず、何回か書き直していて、1ヶ月も経ってのレポートとなってしまいました。ごめんなさい🙏

語らう会って?↓

blog.himitsukichijyajya.com

さて、2023年1月の『語らう会』のテーマは、
【子どもがやりたいことを「仕事」にするために今できることは?】
ゲストに、元南極観測船しらせ乗組員である高山 修さんをお呼びして、ご参加くださったみなさんと語らいました。

高山さんは、海上自衛隊の一員として、南極に2回志願して行かれています。
・南極の現地観測のために、自衛隊が南極への物資補給・人員派遣等で関わっていること。
・それほど、南極は、行くことも滞在することも、過酷な環境だということ。
・南極へ出発し、南極へ到着するまで、また現地滞在をし、帰国するまでの長時間、限られた空間である観測船の中でどのような生活をしているのか。
・南極ではどんなことをしているか。どんな風景が見られるか。
そんな話も高山さんからは伺えるのですが・・・!


今回はそこよりも!「高山さんがこれまでの人生をどう辿られてきたのか」ということを中心に1時間にぎゅっと凝縮してお話していただきました。
というのも、高山さんが辿ってこられたその時々の考えだったり、行動だったりの中に、高山さんが自分らしく、自分がやりたいことをやりながら生きてきたコツのようなものがたくさんあるなとわたしが感じていて、誰でもできそうで案外できていないその行動の積み重ねで、どこにでもいそうなおっちゃん(←すみません😂いい意味でです🙏)が好きな飛行機の仕事をやりながら、南極まで行っちゃったというお話を、ぜひ、みなさんに直接聞いて、それらを感じていただきたいなとずっと思っていて、今回お呼びすることにしました。

 

🎶参加されたみなさんのご感想です↓↓↓

【「語らう会」に参加してみて・・・】

突破力大事だなぁと思いました。
あんまりギチギチせずに、柔軟にいくこと大事と思いました。
(40代男性)

 

やりたい事、思いは口に出す。
わくにはめず、一対一、一人の人間として接する。
(40代女性)

 

具体的に仕事を紹介してあげることは今まで頭になかったです。
子どもの選択肢をふやすには知ることが大切だけど、身近な大人はかぎられています。
大人が色々な人とつながって子どもに見せてあげるのはいいなと思いました。
40代女性)

 

高山さんはやりたい事をまわりに伝えていた。
最終的には、飛行機ではなく、船だったけど、そこでも楽しむことをしていたのがすてきだった。
他の人の意見も聞けて、自信をもたせる、いろんな職業を見せてあげるなど、自分とは違った考えも知れて良かった。
(30代女性)

 

学びが深まって良かった!
職場だとたまに疎外感を感じることがありますが、ここでは様々な意見を持ちながらも、真剣に子どもたちのことを考える人の集まりなので、ちょっと角度が違った視点など気づきもあって楽しかった。
自分の考えを整理する意味でも良かったです。
(40代女性)

 

色々な方の色々な視点での話がとてもおもしろかった。
(30代女性)

 

一人で考えているより、人と話しながら考え、共に意見を出し合うことで、自分の考えもまとまった。
自分で自分の人生を楽しんだり、言葉に出すことで、子どもにとってポジティブな環境となることが今からできることかなと思います。
(20代男性)

このように、アンケートでも『語らう会』の中でもさまざまなご意見・ご感想がありました。

 


わたしは、高山さんがこれまで辿られてきた人生の中の選択や行動にはたくさんのポイントがあったと思っていますが、その中でも大きなポイントはこの3つでは無いかと思っています。

まず1つ目のポイントは、何より、高山さんが図々しかったこと。
中学時代に、無理だと言われて一旦は引っ込めたことも、再び目の前にそのきっかけがあったときに、諦めずに図々しく「自分にはできないのか」と聞けたこと。
「自分にもできるのでは」そう思っていたこと。
「やりたい」「どうやったら自分にできるか」と口にできたこと。
たったそれだけですが、実際に素直に、図々しく、行動できる人がどれくらいいるでしょうか。
参加者のみなさんからも「根拠の無い自信」「言葉にする」という意見が上がっていました。
日本人には、大人にも子どもにも最も足らない要素じゃ無いかなと思います。
「図々しいかな」「自分には無理かな」「前もダメだったしな」「こんなこと言ったら、親を、大人を、困らせるかな」そうやって、引っ込めてしまった経験、みなさんには無いでしょうか。わたしには、過去の人生の中で、同じように引っ込めてしまったこと、口にできなかったこと、たくさんあります。
でも、今、わたし自身が「自分にもできる」そう思ってやってみると、やれば大概のことはできています。諦めずに、トライアンドエラーを繰り返せば、必ずできるという確信もあります。そう考えると、子どもの頃に、諦めずに、突き進んでいたら、一体今頃どんな人生になっていたかなと思います。

普段のわたしたち大人のちょっとした声かけ、表情が、誰にでもできそうな簡単な行動にストップをかけてしまっているのではと思います。
どんなことだって、やろうと思えばできる。
ただ、今ここからスタートするだけなんですよね。

 

2つ目のポイントは、高山さんが自分を知っていたこと、その上で自分が挑める環境を選んだこと。
高山さんは中卒で、一般的に考えると学歴はありません。ご自身も「勉強はできなかった」とおはなしの中でもおっしゃっていました。
中学卒業後に、一旦民間で働かれて、そこでの経験などと「飛行機に携わりたい」ということをご相談されたところ、アドバイスを受けて、「海上」自衛隊に入隊し、飛行機に携わる仕事をされていました。「航空」自衛隊では無くです。

この話を聴いて、わたしはバカリズムさんのおはなしを思い出しました。
https://news.yahoo.co.jp/byline/inyoutv/20220323-00286908

今、もし目の前の子どもが「飛行機の仕事をしたい」と言ったら、みなさんはどんなことを想像するでしょうか。
「飛行機の仕事」と一言で言っても、それはパイロットかもしれないし、整備士かもしれないし、「飛行機」に関する本を作る仕事かもしれません。仕事の種類は1つでは無いし、そこに辿り着く道筋も実際にはたくさんあるのだと思います。
わたしは高山さんのおはなしを聞くまで、そんなルートで「飛行機」の仕事に携わることができるなんて、全く知りませんでした。でも、現実に、そんなルートがあったってことです。
ですが、現実には、「それを学べる学校に行く」という狭い選択肢を選ぶケースがほとんどでは無いでしょうか。その世界に全く詳しくもない、知ろうともしない(直接興味があるわけでは無いから当然ですが)浅はかな大人(親や先生)の考えだけで、子どもたちの選択肢は限られてしまいます。
本当はいろんな道があるかもしれないのに、どんなところにチャンスがあるかもわからないのに、「その子」に合っているのかも考えずに、学歴を得るために、受験を成功させるために、今興味の無い勉強に邁進させることになっているということです。それが本当に大切なことかよく考えなければいけないと思います。

 

3つ目のポイントは、今、目の前の「やりたい」と思っているひとつひとつをやっていったこと。
高山さんは「飛行機」がやりたくて「海上」自衛隊に入隊されました。
そして、「海上」自衛隊だったからこそ、「南極観測船しらせ」の乗組員になるチャンスとタイミングに恵まれました。
そして、「南極観測船しらせ」の上で、好きだった写真をたくさん撮られていました。船に乗っている方がみなさんそうされていたわけではなく、高山さんの趣味で南極の風景や船上・船内の様子を撮っていらしたのだそうです。高山さんは、これまで中学校などで子どもたちに南極のおはなしをされてきています。そして、今回、わたしたちも高山さんのお話を聞く機会を持つことができました。
そして、船の中で、他の船員の方が楽しまれていた「革細工」に興味を持ち、船を降りたその足で「革細工」を始められたのだそうです。
現在は皮細工の作品を作って、県内外のマルシェに出店して販売されています。

何がどう繋がっていくかわからない。
高山さんは、「これになろう!」と見定めて、進んでこられたわけでは無いと思うのです。
その時々で高山さんの目の前に転がってきた「興味があること」「好きだったこと」「やりたかったこと」を躊躇なくやってきただけです。
「それが将来の何に繋がっているか」ということを深く考えていたわけでもなく、「きちんとできるか」とか「最初から最後までやり遂げられるか」とかそんな小難しいことを考えて始めたわけではなく、ただ「好き」だったから、「やりたい」から自分にもできないかと動いてこられただけです。
そして、その全てが、その後の人生に、今に、全て繋がっているということを体現されています。

高山さんの取ってきた選択や行動でヒントになることはまだまだあったと思いますが、ぜひ、直にお話しを聞いて、また感じていただきたいなと思います。
*県内各地のマルシェに出店されています。直近では、2月26日曽於市ふれあい広場でcocoパークに出店されるそうですので、よかったら皆さん、高山さんと繋がって、直接おはなし聞かれてください。

* * *

あともうひとつ、わたしが個人的に大切だ思っていることがあります。
「子どもの選択を美化しすぎない」ということです。
今回の高山さんの話は、うまく行った内容を後から話しているので、素晴らしい話のように見えますが、「選んでみたら違った」ということだって往々にしてあると思うんです。
それくらい子どもの選択なんて、未熟で、拙いものです。
よく、中学3年生が進路を選ぶときに、「人生の選択」をしたような表現をすることがありますが、実際、例えば高校で建築を学んでも、卒業後に自動車整備の専門学校に行くケースもあるし、ミュージシャンを目指す場合もあるわけで・・・
やってみて違ったら、どんどん違う道に行けば良いんですよ。進んでみて「違う」とわかったことが既に成果だと思います。それなのに、世間は「しっかり考えて選ぶ」とか「せっかくここまでやったのに」とかそういう言葉を子どもにかけたりするわけです。

そうやって美化しすぎていて、子どもが軽い気持ちで決めることができなかったり、子どもが方向転換の決断をできなくなったりしているケースがたくさんあるのでは無いかと思います。
かつてのわたしもそうでしたが、「違う」と思ったなら、次へ行った方が絶対にいいとわたしは思う。人生の時間は限られているのだから。

でも、その選択をどれだけしてきたかが大切で、そうして選んできたからこそ、「自分」が何が好きなのか、何がやりたいのか徐々に鮮明になっていくのではないかと思うのです。

今回、皆さんのお話を聞いていても思いますが、先に何か「仕事」と想像できるものを想定して、そこに進む道を考えるというような発想になりがちなのかなと思います。
過去のわたしもそうだったし、そう考える気持ちもわかるけれど、何にも知らない子どもの全てがそんな先のことまで見通せるわけが無いとわたしは思います。
(もちろん、その夢を見据えて最初から最後まで一直線の子もいると思うし、それはそれで素晴らしいことなのですが・・・)
目の前の「好き」「やりたい」を一つひとつを突き詰めていった先に、未来の「仕事」が待っていると考えると色々なことがすごくシンプルに考えられるようになる気がしています。

* * *

 

1月の『語らう会』には、いろいろな立場の方が来てくださいました。

わたしが気づかなかった視点で考えている方もいました。
わたしがそうは思わないと思うような意見もありました(テーマとは別の話題ですが)。
わたしの中でも新たな気づきになりましたし、当たり前だけどいろんな考えや気持ちがあって、わたしの勝手な思いが相手の気持ちを踏み躙ることもあるかもしれないなと思ったり、でもこれが「自分」だと感じたり。


まだ、たったの1度の開催ですが、思っていたよりも素晴らしい会になりそうだなと思っています。

日本にはそういういろんな意見が出て当たり前という場がなかなか無いですよね。
どうしても、どこか一つの答えに終着したがるというか。
学校も元々用意された答えだったり、先生の考えに終着しがちですし、保護者の懇談会や話し合いもそうですし。地域や職場でもそのような流れがあると思います。

でも、そもそも、みんなそれぞれ、考えも気持ちも立場も違うので、いろんな意見があって当然なのです。実際の課題は、そこをどうすり合わせるかが大事で、普段から、それぞれ違う人たちが存在していると認識し合うことが、「自分」というものも、「相手」というものも大切にするという土台になると思います。

そういった土台のもとで、共に子どもたちを育む環境を作っていけたらなと思っています。
細ーく長く続けていきたいと思っていますので、ご興味ある方は、今後もご参加いただければと思います。

 

次回の『語らう会』は・・・
2023年3月18日(土)15:30-開催です!

詳しく知りたい方や参加ご希望の方は、さんすう教室コポリの公式LINEかインスタグラムのDMにメッセージお願いいたします。

 

さんすう教室コポリ 公式LINE

lin.ee

 

さんすう教室コポリInstagram

https://instagram.com/kopoli_math?igshid=YmMyMTA2M2Y=

 

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\かつて子どもだった大人たちへ/
2021年春、
鹿児島県曽於市『財部町』に
みんなのひみつ基地Jya-Jyaをつくろうと思い立ちました。

まだまだ、手付かずのボロ牛小屋だけど、
来てくれる 大人 も 子ども も
「自分らしく」「好きなことをして」過ごせる場所になったらな。
そして、そんな場所がこの世界に広がっていったらな。

そんなふうに思っています。

昨年の映画「夢みる小学校」上映会を機に始めることにした《語らう会》。
今後、細ーく長ーく続けていけたらなぁと思っています。

わたしが家族と一緒にひみつ基地をつくり始めた経緯が
キニナル方はコチラから↓

はじめまして、公務員を辞めました  

 

その後2022年5月、
さんすう教室コポリをスタートすることにしました。
そのときの思いはこちらです↓

さんすう教室を始めました

 

 

 

 

『語らう会』を始めました


こんにちは
大瀬 優子です!
宮崎県都城市のお隣、鹿児島県曽於市財部町で
ひみつ基地Jya-Jyaとさんすう教室コポリをやっています♪

2023年1月から、さんすう教室コポリで『語らう会』という場を始めました。
ということで、『語らう会』の概要となんでやるのか、今の想いを残しておこうと思います。

* * *

🎶『語らう会』って?

奇数月第3土曜日15:30ーに定期的に開催予定。
「教育」や「子どもたち」を中心に置いたテーマで、キニナル方のおはなしを聴いたり、映画や映像を観たり、本を紹介したりして、大人が学び考え語り合う会です。

ついつい普段の生活に流されがちになって忘れてしまうことを思い返しつつ、学びを重ねることを目的としています。

この会は「対話」ができる場に育てて行きたいと思っています。
対話とは、その場にいる人が互いに尊重し合い話をすること。
例えば「大人」と「子ども」という立場の差があっても、意見に大きな違いがあっても、無視したり、対立したり、否定するのではなく、互いの感情や関心に耳を傾け、お互いの立場の強みから気付きを得たり、学び合うことです。
対話することで、新しい道を見出すこともできていくと、わたしは思います。

わたしたち大人は、公の場で自分の意見を出し合い、違う意見に耳を傾ける経験をしておらず、また普段の生活で大人同士が対話する場もなかなかありません。

2020年の学習指導要領の改訂でも盛り込まれた「対話」。

ぜひ、大人のわたしたちが身につけ、その後ろ姿を子どもたちに見せられる場にしていけたらと考えています。

* * *

🎶なぜ、『語らう会』をやるのか?

一般的に、保護者の立場で、子育てや教育の話をするとき、共感ベースの会話になることが多いと感じています。子育て支援の相談の場などでも、そうで「みんなそうだよね」「お母さん頑張ってるね」「何かあったらなんでも話して」という会話となりがちで、その相談をもとに、「年子や多胎育児である」「子どもに何か特性がある」など具体的な課題にたどり着けば、実質的な支援などにつながるケースもあるのかもしれませんが、その相談がより一般的なものであればあるほど、「共感」でのようなところで終わってしまって、結局は、一番肝心な"子ども”にとってどうなのかという視点まで辿り着かないケースが多いように思います。

わたしもかつて、仕事と家事に追われ、子どもに怒鳴ったり、手をあげたりがやめられなかったときに、相談するばかりで具体的に問題や課題が何年も解決していかないことがありました。「子どもにとっていい環境ではない」と自覚しながらも、自分の力で状況を改善できないことに、人として親としての欠落感のようなものがありました。

確かに、子どもを育てる保護者の不安や不満を拾い上げて、保護者の精神的、肉体的な安定を取り戻すことは大切なことだと思うけれど、その上で、さらに具体的な課題や問題が抽出して、今後踏むべきステップを明らかにしていくことがより大切だと感じています。

子どもを育てるということは、人ひとり育てること。簡単にできることではありません。でも、わたしたちはその方法を教わる機会はありませんし、現代社会ではいろんなお手本を見る機会も少なくなっています。(昔は、兄弟の子育てとか、親戚の子育て、ご近所の子育てを見る機会もあったと思うのですが)わたし自身は、子育て雑誌や行政の子育て情報を参考に過去子育てしてきましたが、この数年、わたしの子育てで具体的に出てきた問題と向き合うと、これまでやってきた子育てのツケが実際に「子ども」に出てきているといったことがたくさんありました。そして、その中で出会った、本来子育てに必要だったことや社会の問題や課題を学んでいくことで、わたし自身の問題・課題も次第に解決していきました。

子育て・教育の悩みは、親や大人が主体的に学べば、次第に解決していくとわたしは今思っています。親として未熟なだけで、より良い子育てや教育を、子どもを通じて学べば、成熟していくことができ、子どもの課題に向き合うことができるようになります。
一方で、子育てや教育に関する講演会や勉強会はたくさんありますが、それを自分ごとに落としていくのは難しいことです。どんなにいい話でも、頭をかすめては、日々日常の生活に追われてしまい、忘れてしまうからです。

そこで、「子育て」「教育」を共に学び、そして共に語り合う場を作ろうと思いました。
子育てや教育について、愚痴をこぼす場はあったとしても、なかなか真剣に議論する場は少ないと思ったからです。
「子ども」はミライそのものです。
「子ども」たちの感覚や考え方が変われば、未来は大きく変わる。
そのことをしっかりと自覚しながら、大人が真剣に「子どもたち」「ミライ」「教育」について語り合うそんな場。
みんなで学んでインプットしたことを、その場でアウトプットし、定期的に集まって、また思い出す。そんなことを繰り返しながら、子どもに関わる人として大人が日々成長することで、「子どもにとってどうなのか」という視点で子どもたちの課題・問題に取り組めるようになればと思っています。

 

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\かつて子どもだった大人たちへ/
2021年春、
鹿児島県曽於市『財部町』に
みんなのひみつ基地Jya-Jyaをつくろうと思い立ちました。

まだまだ、手付かずのボロ牛小屋だけど、
来てくれる 大人 も 子ども も
「自分らしく」「好きなことをして」過ごせる場所になったらな。
そして、そんな場所がこの世界に広がっていったらな。

そんなふうに思っています。

 

わたしが家族と一緒にひみつ基地をつくり始めた経緯が
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はじめまして、公務員を辞めました  

 

その後2022年5月、
さんすう教室コポリをスタートすることにしました。
そのときの思いはこちらです↓

さんすう教室を始めました

 

 

 

 

コロナは終わるのか

こんにちは
大瀬 優子です!
宮崎県都城市のお隣、鹿児島県曽於市財部町で
ひみつ基地Jya-Jyaとさんすう教室コポリをやっています♪


昨日のニュース、
新型コロナウイルスの第5類引き下げを検討しているそう。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20221228/k10013936641000.html

わたしとしては、コロナなんてもうとっくに終わっている。
というか、結局最初から無かったのだと今となっては思う。

先日、野草の話を聞きに行ったら、久しぶりにコロナの実情の話を聞いて(と言っても、厚生労働省から出ている数字などをただ積み重ねた話なので、誰でも調べればわかることで、かつ体感でみなさんわかっていることもたくさんあると思うのだけど)、今を生きている子どもたちのことを思うと本当に悔しい思いしか無くて、怒りが沸々と湧いてきた。

今の中学3年生、高校3年生はもうすぐ卒業を迎えるわけだけど、その子どもたちは、この3年、大事な青春の学校生活で、ほとんど友達の顔を見ることが無かったのだと思う。
マスクをしていて、知っている人に気づかないことって、今や誰にだって、経験があると思う。わたしは、マスクを外しているから、よく声をかけられるけど、わたしは気づかないことがほとんどで。
友だちや仲間との密な話・コミュニュケーションを交わして、自分という存在を深めるような大事な時期にそんな青春を過ごさせた、その状況を見過ごしてきたわたしたち大人の責任は本当に重いとわたしは思っている。

* * *

今年2022年、別に守るべき立場も無いので、スーバーでも高齢者だらけの温泉でも、何度声をかけられても、ほぼマスク無しの生活を送っていたわたし。

だけど、ただ1箇所だけマスクをしていた場所があった。

それは、子どもたちの学習の採点のお手伝いをしている教室。

わたしは、繰り返し計算とか、漢字の書き取りとか、もう本当に意味が無いと思っている。わたしには「学校」の日常は非日常になっていて、でも、世の中の多くの子どもたちはまだなおその日常の中にいるので、日々どんな勉強をしているものなのか接しておきたくて、お手伝いを始めた。

ただ、お手伝いをする中で、お手伝いをさせていいただいている先生が、目の前の子どもたちをしっかり見て、子どもたちに状況・状態によって、その子の今や将来を考え、対応されている姿は素晴らしいと思っていて、子どもたち自身もほっと息をつける場になっているのでは無いかと思って、その姿を日々学ばせてもらってきた。

その教室は、その先生の場なので、その先生の邪魔にならないようにしたいと思い、わたしはマスクをつけることにしていた。
先生は、マスクを外す子どもも認めていたし、わたしも「マスクをしてください」と一度も言われたわけでは無かったのだけど。
そんなわけで、唯一わたしがマスクをする場になっていた。

* * *

ただ、秋頃から徐々に「暗黙の了解」のうちに動いている日本人の姿が、今の生きづらい社会を作っているような気がしていて。

映画「夢みる小学校」の上映会をして、たくさんの人に映画を知ってもらえた喜びや感謝を感じつつも、「普通」とされるものに照準を合わせて、少数の意見を切り捨てて、少数を排除して成り立っている「学校」を作り上げているのは、やっぱり、一人ひとりの「小さな声」を無視し続けていること誰よりもその声を無視しているのは「自分自身」で「これくらいは我慢できるから」と(無意識の考えかも)思っていて、声に上げることも無いからでは無いかと思う)が大きいのだと痛感して、上映会を終えた後、自分に正直にいたいと思って、ついにマスクを外すことにした。

わたしが、その先生のことを信頼する気持ちにも、先生の場を大切にしたいという想いにも、何ら変わりはないのだけど、わたしは、マスクをする意味を感じていないし、子どもたちにとってマスクをしない大人の存在が、何かしらの意味を成すと思って。

先生に確認してから、マスクを外そうかとも思ったけれど、禁止されているわけでも無いのに、わざわざ聞くのもどうかと思う。そんなの、結局、責任転嫁しているだけだから。結果、もし、「マスクをしてもらわないと困る」と言われたら、残念で仕方ないけれど、そのときは「仕事を辞める」ということも致し方ないと思っていた。

日本人は、「何事も無いように」することが多くって、波風立てないように日々過ごしているけれど、「こうしなければいけない」とか「こうでなければいけない」と言うことではなくて、自分が「こうしたい」「こうでありたい」ことを、躊躇なくスッと出して、ちゃんとぶつかって(と言っても対立する必要は無くて、ただ出し合って共に向き合えばいいだけ)、前に進めばいいだけだと言うことがたくさんある気がしている。

ただ、「嫌なことは嫌と言って、好きなことやりたいことは貫けばいいだけ」ということ。


結局、マスクを外しても、先生は変わらず接してくださっている。

そして、子どもたちは、マスクを外してから反応はさまざま。

「先生、なんでマスクしてないの?」と当日から言って、
「たまには外そうと思って」とわたしがいうと、
「じゃあ、自分も外そう」といってマスクを外す子。

不思議そうに見つめるだけの子。

気づいているけど、特に反応の無かった子が、
先生がいない隙を見計らって、
「先生、マスクは?」と聞いてきて。
「普段からいつもつけていないよ」と言うと、
「こわーい!コロナになるよ。」と言うので、
「こわくないよ、コロナにも罹っていないし」と言った。
文面では難しいけれど、言葉では「こわい」と言っているけれど、本当にこわいと思っているのかなと思うようなやりとりだったと感じてる。

わたしがマスクを外したことが、小さな波になって、何か少しでも子どもたちの心に届いていることを願う。
わたしがわたしでいることでしか、わたしが与えられることは無いのだから。

* * *

第5類に引き下げられたら、コロナは終わるだろうか。

こんなわたしの小6の娘。
好きな時間だけ学校に通い、フリースクールではほぼ誰もマスクをしていない、そんな生活をしている娘。

そんな娘なのに、外出先でふと目を向けると、いつの間にかマスクをしている。

うちは夫は一般的な場所ではマスクをしている。
下の子2人にはマスクをつけさせることはほとんど無かった。
上の子だけは、どうしてもっ・・て所だけは「マスクして」と言うこともあったのだけど、気づけば、今、自らマスクをつけている。
思春期真っ只中の娘。

わたしは、今、結構強めに「マスクを外しなさい」と言っている。
「外せなくなるよ」と。

渋々、マスクを外すけれど、恥ずかしいと口元を隠す。
誰かに声をかけられるのがめんどくさいとも言う。

うちの娘でもこうです。子どものタイプにもよると思うけれど。
このマスク社会で「どうやって、キスするのか?」みたいな笑い話があったりするけれど、はっきり言って笑い事じゃない。今後の人生に大きな影響が出る子もきっとたくさんいる。

本当に、コロナは終わるでしょうか。

自分で決めるって大事だと思うけど、「マスク」は子どもたちが自分の意思でつけたわけでは無い。
大人の都合でつけることになったもの。

こんな社会になってしまった、3年間も見過ごしてきたわたしも含めた大人の責任は重い。

マスクをつけることは法律でも何でもない。
つけるか、外すか、誰の許可を得る必要もない。
自分で好きなように選べること。
薄々は気づいているけれど、
「何事も起こらないように」「自分が矢面に立たないように」
目の前の小さなぶつかり合いを避けていることが、結局、未来ある子どもたちの大事な今を奪っているということ。

国が「終わり」と言って、全てまっさら終わりになるなら良いけれど。
本当の問題が出てくるのは、忘れたころだと思う。
そのときは誰も責任なんてとってくれない。

大人が「自分がどうしたいか」一人ひとりちゃんと選んで進まなきゃいけないと思う。

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\かつて子どもだった大人たちへ/
2021年春、
鹿児島県曽於市『財部町』に
みんなのひみつ基地Jya-Jyaをつくろうと思い立ちました。

まだまだ、手付かずのボロ牛小屋だけど、
来てくれる 大人 も 子ども も
「自分らしく」「好きなことをして」過ごせる場所になったらな。
そして、そんな場所がこの世界に広がっていったらな。

そんなふうに思っています。

 

わたしが家族と一緒にひみつ基地をつくり始めた経緯が
キニナル方はコチラから↓

はじめまして、公務員を辞めました  

 

その後2022年5月、
さんすう教室コポリをスタートすることにしました。
そのときの思いはこちらです↓

さんすう教室を始めました

 

 

 

 

娘が通う「未来の夢みる小学校」

こんにちは
大瀬 優子です!
宮崎県都城市のお隣、鹿児島県曽於市財部町で
ひみつ基地Jya-Jyaとさんすう教室コポリをやっています♪

 

 

わたしは今、映画「夢みる小学校」の上映会がやりたくって突き進んでいます。
ついに12月3日(土)、4日(日)に開催を決めました。
春に、映画館で映画を観たときから、絶対にやりたいと思っていて、ついに!です。

とにかくこの映画を、ただただ、たくさんの人に観てほしい。
そんな気持ち一心です。

この映画を観ると、不登校の子の特別な子のためだけじゃなくて、どんな子にとっても本当に価値のある学び、大切なものがそこにあるって感じると思います。
そして、その結果、社会全体があたたかいものに、本当に良くなっていくってわたしは本気で思っています。

本当は上映会のサイトを作るつもりは全くなかったんですけど、なんだかいろいろ考えていたら、想いが溢れて、猛烈に作りたくなって、2時間くらいで作ってしまいました。
ぜひ、覗いて見てほしいです。
予告編だけでもどうか見てください。(←しつこい笑)。

miraiwohagukumu.hp.peraichi.com


映画を観て見て、「こんな学校がいい」ってそう思わない人がいても、もちろん構わないのですけど、こんな世界があるとも知らずに、目の前に並べられたものしか無いと思って、学校なんてこんなもんだって、たくさんの子どもたちが大切なものを後回しにして、一生懸命黒板写して宿題して、大人になってしまうのは違うと思っています。
子どもだったときのわたしは、そんな世界があるって知らなかったから。わたしは、ずっと大人が、学校が求めることをちゃんときちんとやってきた優等生でした。その結果、世の中が良いと判断しているものは手に入ったけれど、それは自分の心が求めているものではありませんでした。でもそのことに長い間気が付かずに、自分が何者かがわからなくて、本当に本当に苦しい苦しい20代30代前半を過ごしました。そんなふうに、20年以上も遠回りしてしまったんです。
子どもたちには、本当にフラットに、自由に、これから子どもたち自身がどう生きるか選べるようになってほしい。心からそう思っています。

* * *

わたしは「夢みる小学校」は夢じゃないと本気で思っています。

いつできるかわからない新しいそんな学校ができるのを夢みるより、今ある目の前の小学校自体がそんな学校に生まれ変わることがいちばんいいってそう思っています。お金もかからないし、何よりたくさんの子どもたちの"今”がより良くなるってこと。そして、それはすぐにでも実現可能だって思います。(正確には、そういう研修も先生方にしてほしいし、十分な人手がいるからお金はかけなきゃいけないんだけど。)

必要なのは、場所とか、制度とか、仕組みとかじゃないんです。
変わらないといけないのは、「社会の考え方」で、それは「親や先生や地域の考え方」で、結局「わたしたち一人ひとりの考え方」です。

何より大切なのは、目の前の子どもたちを一人ひとりの人として、大人がちゃんと向き合う、子どもたちへの誠意だと思うんです。

* * *

うちの小6娘は、不登校です。
福岡に住んでいた小2のときに一時的に、小4で完全に不登校になり、フリースクールへ移行しました。親であるわたしには苦しい苦しい期間ではありましたが、娘自身はフリースクールで、本当に楽しい素晴らしい毎日を過ごさせてもらいました。この期間があるからこその、今のわたしたち家族です。

そして、わたし自身が自分の人生を生きるために、昨年末に鹿児島県曽於市財部町へ移住しました。
(これは完全に親の都合に子どもを付き合わせました。子どもたちのことを思えば、フリースクールや下の子たちの通うこれまた素晴らしい保育園のある福岡に残るのが本当はベストだったからです。
だけど、そうしないと、移住してわたしが「わたしらしく」自分の人生を歩まないと、夫が「夫らしく」いられないと、不登校の娘が「自分らしく」生きていく姿を、本当の意味で応援できない。と、そう思ったのです。)

* * *

そして、移住後の今年の4月から、娘は、特認校制度というものを利用して、住んでいるところの校区ではない、山間の学校に在籍しています。
全校生徒で十人程度の小さな小さな学校です。

今、娘はこの学校に、1日のうち1時間か2時間か、通っています。
通っているのは、体育とか、総合の学習が主なのかな。毎日の宿題はもちろんしていません。
ですが、宿泊研修や運動会などの行事には、積極的に参加していて、友達とも仲良く過ごしています(元々友だちいっぱいの娘なので)。校区外なので送迎が必要で、わたしの都合でお迎えが本人の希望に沿わないときももちろんありますが、そのおかげで、先日の台風明けの学校清掃に参加したり、本人の意に沿わない授業に参加したり、そんなこともありながら、それでもあたたかく対応してもらって、そんなふうに学校に関われていて、とてもいい関係を築けています。

そして、実は、福岡のフリースクールにも、いまだ通い続けています。
移住後9ヶ月以上たった今ですが、それでもなお です。
月に3度ほど、泊まりがけで通う日々です。
フリースクールでは、普段から川に行き、海に行き、体を使って走り回って、みんなでキャンプをしたり、また1年を通してマルシェでお金を稼いで、自分たちで稼いだお金で修学旅行に行ったりもしています。修学旅行先は自分たちで決め、どうやって行くか、どれくらい費用がかかるか自分たちで調べて、行きたい場所が友達とぶつかったときはzoomで話し合ったり・・・そんな貴重な体験を日々積ませてもらっています。
フリースクールでは親同士も、この子は今こんな感じだとか、家ではこうだけどどう思う?、その子その子の今の課題はこの辺りだなとか、そんなやりとりをしながら、みんなでお互いの子どもたちをずっと見合ってきました。そんなふうに、子にとっても親にとっても、「大切な仲間と、信頼できるスタッフと、安心して好きなことやりたいことに取り組める場所」がそこにはあるのです。

そんな形で、週の半分の数日間は山間の公立小学校に通って、残りの日は福岡のフリースクールでのびのび過ごすという、不登校だけれど、ハイブリッドでヘンテコな楽校生活を送っている娘なのです。
(「ハイブリッド通学」は、今はうまくいっていますが、わたし個人の感覚で言うとあまりオススメではないです。その理由はまた何かで書きたいと思いますが、もし気になる方は直接ご連絡ください。)

* * *

そんな一般的に言うとかなりへんちくりんな生活をしている娘なのですが、小学校の先生方もお友達も、ありがたいことに、それがうちの娘だと認めて接してくださっています。そんな子、普通はいないでしょうから、最初はびっくりはしたと思うのですが、本当に自然に受け入れてくださって、感謝しかありません。

クラスの友達に「なんで学校来ないの?もっと来てよ」って言われることもあるようです。
数年前の不登校当初は、その言葉がわたしも娘も辛いときがありました。
当時は「みんな学校に来てるのにずるい」って言われているような気がしていました。
でも、今、友だちから掛けられているそんな言葉を、娘は、純粋に「もっと娘と遊びたいのに」っていう気持ちからだと思っているようで、そう言われてほんと嬉しそうにしています。

福岡に住んでいる頃の小学校は、1学年が30人×2クラスくらいの規模の学校でした。
先生方も一生懸命考えて対応してくださってたと思いますが、(学校に数時間だけ登校して)途中で帰るとき、
担任の先生が「はい、さようならです。皆さん!」と声をかけられて、
「(独特なイントネーションの)さ よ う な ら 」と
挨拶をしてもらっていました。そんな「娘」と「娘の友達である同級生たち」の姿に、わたしはいつも心を痛めていました。良かれと思ってなのでしょうが、そんな無理に言わせなくても・・・と心の中で思っていました。

今は、授業の終わり(3時間目とかの終わり)に「さようなら」「じゃーねー」「バイバイ」と子どもたち同士の自然なやりとりの声が教室から聞こえてきます。
帰る前に、娘は校長先生にも声をかけて少しやりとりをしてから帰ります。
そして、毎回ではないけれど、担任の先生が娘と談笑しながら階段を降りて靴箱まで送ってくださいます。そして、親であるわたしともたわいもないコミュニケーションをとってくださっています。そんな形式張らないそんなやりとりの一コマ一コマが、とっても自然で、あたたかくて、本当に本当にありがたいのです。そんなへんちくりんな通い方をしている娘でも、特別に対応してもらっているのではなく、ちゃんとここに存在している『ひとりの生徒』として認めてもらっているなと思うのです。

こうしないとダメってことではなくて、そこにそれぞれがそれぞれを思う「気持ち」がちゃんとあるなぁと思うんです。

ただ、大人数が通う学校で、こんなやりとりを先生方に求めるのは本当に酷だとわたしも思います。先生方が少ない人数で、下手したら担任の先生1人で、何十人という子たちを束ねて、定められた学習を全てこなさなければならない。先生方も必死なのだと思います。

でも、それでも、子どももみんなそれぞれ違う人間です。学校の当たり前の波に乗れない子もいる。その波がゆっくり過ぎてつまんない子もいる。
それなのに、ほとんどの全ての子が「みんな」と一緒に同じところに注目させられて、みんな同じように学ばなければいけない。
書くのが得意な子は書いて覚えて、見て覚えるのが得意なら見て覚えるでいいと思うのですが、未だに漢字ドリルは全部埋めるのが基本で、早く綺麗に全部埋められた子が誉められる世界です。
そのように、学習面だけでなく、色々な面で、「みんな同じようにする」ことが求められているという現実があります。(特別支援学級などもありますが、あくまで、「普通クラスでは難しいので」と言う対応で、「みんな」「普通」と言うものが「通常」であって、「そうでない」場合と区別される感じにわたしは違和感があります。)

そんな中で、今、通っている山間の学校には、「みんな」が存在していないとわたしは感じています。
人数が少ないから、「みんな」ではなく「ひとり一人の集まり」という感じがするんです。
違う考えや生き方のひとりひとりが集まっている場所だなって。
「学校に普通に行っている子」も「そうでない娘」も、当たり前にそこにいて、自然にやりとりしている。
社会でも学校でも、こんなふうな考え方で成り立ったら、こんなに素晴らしいことはないと思います。


* * *

こんなエピソードもあります。

娘は、夏休み明けにに小学校のお友達からもらってきたというお土産のクッキーを本当に嬉しそうに大切にしていました。「本当に美味しかったから、みんなにも食べてほしい」とお友達が学校のみんなと先生たちに持ってきてくれたのだそうです。
そして、担任の先生もこの間、離島へ戻られたとき(奥さまが離島の学校の先生)にお土産のお菓子をクラスの子どもたちにも買ってきてくださいました。

とびきりの出来事では無いけれど、なんだか、とってもあったかいやりとりですよね。
学校でこんなやりとりが自然とあることが本当に貴重だなと、こんな心の交流を子どもたちにはたくさん心に刻んでほしいとわたしは思うのです。

だけど、ほんの少し大きな学校になると、「学校にお菓子は持ってこない」と言うルールのもと、一蹴されてしまうことでは無いでしょうか。そうでなかったとしても、「ルール」だからって、勝手に忖度して?お土産持っていかないのが当たり前になってたりしませんか。「お土産を持っていく/いかない」ってことではないんです。「『みんなに食べてほしい』だから持っていこう」っていう子どもたちの本当に自然な優しい気持ちを素直に出せないのって本当に残念だなってことです。小さな小さなことだけれど、本当はあたたかくて子どもたちに必要で大切な交流が、今の一般的な学校では、本当にたくさんのルールで全て封じ込まれてしまっているのでは無いかと感じます。

「ルール」や「きまり」で縛るのは簡単です。「ルール」だから守りなさいと言えば済む。でも、そうではない目の前の人と人同士のやりとりや交流の中で、落とし所を見つけていくような感じでいいのでは無いかと思うのです。「ルール」は本来そういう人と人がスムーズにことを進めるためのツールで、「ルール」通りで無くても、そこにいる人がそれでいいと思えるなら、別に「ルール」を守ること自体には深い意味は無いのではないかとわたしは思うのです。「ルール」は守らなくてもいいと言いたいのでは無くて、そこにいる「人」が「人」を想えば、きっとそんなギスギスしたものではない「あたたかい」解決策がきっとあると思うのです。

結局は、子どもたちそれぞれがそれぞれの一人ひとりの人として大切にされているかと言うことに尽きると思います。

* * *

今の学校に通わせる前に、わたしは校長先生に話をしに行きました。

わたしは、娘が不登校になったからと言って、学校にもう通わなくてもいいと思っているからと言って、娘の未来を諦めたわけでは無いんです。と。
娘は学校には通わないけれど、でもわたしは娘は何にだってなれると思っています。と。
なりたい職業があるのなら、どんな道でもきっと叶える方法はあると思う。と。
ただ、そのときに、今、「学校」に通っていなくて、「長期欠席」だったと言うことが「欠席日数が多い」ということが、不利になることがあるかもしれないことが気がかりです。と。

そうしたら、校長先生は色々調べた上で、連絡してきてくださり、フリースクールに通う日は学校は出席扱いにしますとおっしゃってくれました。

(前提として、本来は通知表を付けることは文科省は定めていないはずなので、出席日数が高校受験の際に調査票と称して提出されなければいけないこと自体がわたしはおかしいとは思ってはいます。ただ、特例的な対応はあるとしても、慣習として、少なくても宮崎・鹿児島では未だにそういった仕組みとなっている事実があります。)

* * *

わたしは、今、娘が通うこの小学校は、「未来の夢みる小学校」の原形では無いかと感じています。

今、娘は、今の国の制度の中でも、仕組みの中でも、校長先生が認めてくださって、担任の先生や周りの先生方も、お友達も、保護者の皆さんも、娘を「普通に学校に通わないそのままの娘」として受け入れてくださっているので、「時間割」とか「通知表」とかそんなものに縛られずに、ありのままの娘のままでも「学校」の中に居場所があります。
そして、それが特別なことではなくて、娘以外の子どもたちもそうやって大切にされていると感じます。
そんなあたたかいやりとりを日々目の当たりにしていると、関わる大人(親・先生・地域・周り)が、「学校は行かないといけない」とか「宿題はしなければいけない」とかそんな凝り固まった価値観ではなくて、「その子にとってどうか」ということに誠意を持って、真心を持って、対応すれば、解決できないことなんてほとんど無いとそう思うのです。

* * *

今、世の中一般で、普通の学校で、それができないのは、狭い教室に、子どもたちを押し込んでいるからです。ひとりの先生が、たくさんの子どもたちを見なければいけないからです。

子ども一人ひとりに真摯に向き合う時間が、学校の先生方には無いのです。
いろいろな業務に追われていることもあると思うけれど、何より、一人で見なければいけない人数が多すぎると思います。人数が少なければ心を配って対応できることも、忙殺されてしまうような状況となれば「みんな一緒」で「ルール」を定めて、効率的にできる方が良くなって当然だと思います。

そんなふうに、みんな違って当たり前なのに、「みんな同じ」を子どもたちに要求しているのが、今の「学校」なのです。

昨年3月31日、学級編成の法律が可決され、小学校の学級の人数を5年間かけて40人(1年生は元々35人でした)から35人に引き下げられることがようやく決まりました。学級の人数が引き下げられたのは、教育現場から長い間出され続けた強い要望であったのに、昭和55年以来のことだったそうです。
そう、40年かかってやっとです。
移住にあたって、公立小学校もたくさん見学して回りましたが、やっぱり40人は多すぎると思います。見ためでも、ぎゅーぎゅーです。でも、少なすぎるのも、手をかけすぎてしまうと思うので、クラスの中で色々な子を見渡して対応していくなら、1クラス15人とか20人くらいがいちばん良いのでは無いかと、個人的には思っています。

少子化で、子どもたちは減り続けているのに、子どもが少なくて大人が多くなっているのに、子どもたちの環境は40年も、わたしたちが生まれる前からほとんど変わっていないんです。いつまで経っても、そうやって狭い教室に閉じ込めて先生が子どもたちを管理しようとしている状況なのです。

でも、これって、先生のせいではない。
こんな学校を作っているのは、わたしたち一人ひとりが作ってきた社会なんだと思います。
これから先の未来は、今の子どもたちが作っていきます。
その「未来そのものである子どもたちにとって、どんな"今”が必要か」一人ひとりの大人がしっかり考えないといけないのでは無いかと思います。
少しでもよりよくなっていくように、関心を持ち続けないといけないと思います。

ずっと、人々は便利さを求めて、山間を離れています。
今、わたしが住む曽於市の山間の学校はどんどんどんどん学校が閉校になって、どこかの学校に統合されていっています。
40人学級が40年かけてようやく35人学級になろうとしている一方で、山間の学校は急速に無くなってどこかに集約されていっている。
曽於市の現市長が市長判断で閉校を指示されることはありません。曽於市のどの小中学校の閉校も、各学校の子どもの人数が減りに減ってしまい、仕方なく地域から要望が出て決まるという状況です。
学校が無くなるときは、長い長い歴史があった学校でも、本当に簡単であっけない。でも、新しい学校ができるのは本当に容易なことでは無いのです。無くなってから気づいても遅いけれど、その現実は刻一刻と進行しています。
今あるものを活かして、活用する手立ては、本当に無いのでしょうか。視点を変えれば、今、わたしたち一人ひとりができることはまだまだ山ほどあるんじゃないかとわたしは思うのです。

「夢みる小学校」はすぐにでも、明日からでも、目の前の公立小学校で実現できる。そう私は思っています。

ルールや慣習にこだわらずに、その場所にいるその時々の子どもたちの興味や関心、その子たちらしさによって「学校」が形成されていくことが当たり前に行われれば、どんな学校も、結果「夢みる小学校」になっていけるのではないかとそう思うのです。
これからの学校は、今までのように学校に子どもたちが合わせるのではなく、子どもたちに大人が寄り添っていく形に変わっていかなければいけないのでは無いかと思うのです。

「学校は行かなければならない」「宿題はしなければならない」「ルールは守らなければならない」目の前の子どもを置き去りにして、そのことを議論しても、全く意味はありません。
わたしたち大人一人ひとりが誠実に真摯に、この社会を見つめて、目の前の子どもたち一人ひとりと向き合って、その子その子を大切にできるそんな社会になればと願って、わたしは今、突き進んでいます。

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\かつて子どもだった大人たちへ/
2021年春、
鹿児島県曽於市『財部町』に
みんなのひみつ基地Jya-Jyaをつくろうと思い立ちました。

まだまだ、手付かずのボロ牛小屋だけど、
来てくれる 大人 も 子ども も
「自分らしく」「好きなことをして」過ごせる場所になったらな。
そして、そんな場所がこの世界に広がっていったらな。

そんなふうに思っています。

 

わたしが家族と一緒にひみつ基地をつくり始めた経緯が
キニナル方はコチラから↓

はじめまして、公務員を辞めました  

 

その後2022年5月、
さんすう教室コポリをスタートすることにしました。
そのときの思いはこちらです↓

さんすう教室を始めました

 

 

 

 

みんなが黙っていることの怖さ

こんにちは
大瀬 優子です!
宮崎県都城市のお隣、鹿児島県曽於市財部町で
ひみつ基地Jya-Jyaとさんすう教室コポリをやっています♪

 

「何か意見はありませんか?」
と問われて、意見が全く出ない場面に出会うことはよくあること。
割と大人数の会場の方がその傾向が強いのかなと思うけど、でも、たくさん人がいるのに、誰も意見が全く無いなんてことは無いわけで、結局、いろんな理由でみんな「意見を言わない」「黙っている」と言う選択をしているってことだと思います。

その理由は、「恥ずかしい」とか、「目立ちたくない」とか「特に意見がない」とか、「クレームと思われたら嫌だな」とか?他はなんだろうな・・・・
色々あると思うけど、結局その色々でやってくる出来事だったり、人との摩擦だったり、自分の中の葛藤だったり、そういうのに直面するのを「めんどくさい」って避けていることのが根底にあるかもしれない。

わたしは割と思ったら黙っていられない方で、日本社会の中では「意見を言う」方だと思うけれど、それでも、特に主張したい意見が無いときに、黙っていることもよくあります。
いや、、、特に意見がないときだけじゃない。
実際は話したいことがあるけれど、
「こんなことわざわざ言わなくてもいいか」って思って言わなかったり、「毎回わたしが言うのもなぁ・・・」って思って言わなかったり、「時間長引くと迷惑かなぁ・・・」って思って言わなかったりみたいなケースもあるわけです。

* * *

つい、最近、とあるテレビ番組の特集を目にしました。
2022年8月31日に富山県の北日本放送さんで放送されたものだそうです。
いつまでWEB上でこの番組が公開されているか分からないので、よかったら、ぜひ、早めに見て考えてほしいと思います↓↓↓
(動画は、2本に分けられていますので2本あります。
 どちらも大切な内容ですので、ぜひ見てほしい!!!)

※20220929追記 
動画が見れなくなっているみたいです🥲
すごく考えるきっかけになる動画だったのに、
残念すぎる。。。

www.knb.ne.jp

内容は「”統一協会”と性教育」。「統一協会」も「性教育」も嫌煙する人もいるかもしれないけれど、ぐっと我慢して最後まで見て考えてほしいです。

* * *

ちょっと本題とズレてしまうので、「性教育」については横に置いておきたいのだけど、でもそこ置いといたら重要性が伝わらない気もするので、本題に入る前に、前提として「性教育」について少し触れたいと思います。

学校現場で「性行為」について触れられないと言うことはわたしは本当に大問題だと思っていて、しっかり学校現場で取り上げてほしいとわたしは思っています。
わたしは小6娘には、命が生まれる仕組みを伝えていて、行為自体のことも既に直接話しています。娘がどの程度理解できているかは分からないけれど、大人が子どもたちにしっかり伝えなければいけないことと考えています。

わたしたち、大人も「性教育」をしっかり受けてきていません。
そのことを知って、わたし自身が学び直したのですが、わたし自身も全く知らないことがたくさんありました。

あってほしくはないけれど、強姦されたときどうすればいいのか。
きちんと知っていますか?
知っていたら、「妊娠」だけでも回避することができるかもしれない。

別に、非合法なことでも、難しいことでもない。普通にできることです。
でも、それを教えてくれる場所は、今の子どもたちには基本無いのです。
女の子がいる家庭では他人事ではない話です。
男の子の家庭でも、大切なパートナーがそう言うことに巻き込まれるかもしれない。

心身ともに傷ついたとき、何も知らないところから、正常な判断ができるとは思いません。


そんなふうに「性教育」として、子どもたちにしっかり伝えておかないといけないことが山ほどあると思うのです。


* * *

”統一協会”って今、テレビでは持ちきりの話題なのかな?
テレビをほぼ見ないので(特にニュース)世間の話題にかなーり疎いのですが、そう思って書きます笑

”統一協会” わたしも、小さいころワイドショーとかで合同結婚式とかを取り上げているのを見たりしてましたが、何のことかさっぱり分からなかったし、いまだに蔓延っていたなんて、びっくりしています。
「”統一協会”わたしには直接関係ないし・・・」とか「政治も遠い世界の話だし、、、」とか思う人が多いとは思うけれど、この番組を見て、本当に身近な「わたしたち」の問題だし、わたしたち一人一人がしっかりと考えていかないといけないと思ったので、ブログに取り上げることにしました。

* * *

番組を見た方はぜひ、どう思ったかコメントや公式LINEででもいいので教えてほしいです。


わたしは、本当に怖いなと思いました。

もし、これが事実なら、、、いや事実なのではないかとわたしは思うのですが、本当に日本って大丈夫なのか?って思う深刻な問題です。

以前ブログにも取り上げましたが、行政は「声」の大きい方に動かされていきます。

blog.himitsukichijyajya.com

PTA役員や、国会議員などの権力を持っている人が、【一部の偏った人たちの思惑のある意見】を基に世間の流れを作ってしまったら、どんなに子どもたちにとって必要なことも、どんなに現場に近い人が必要だと思っていても、子どもたちの目の前から無くなってしまうのだということです。

そのことで、知っていれば回避できることなのに、知らなかったがために、子どもたちの未来が大きく変わるかもしれないってことです。

悲しいし、本当に怒りが込み上げてきます。

* * *

そして、今回、
特に考えてほしいのは、2本目の動画の出来事です


普通の学校の「性教育」の講演会で起こった一コマの話です。
わたしたちの生活にグッと近い場面です。
この番組で取り上げられたような場面で、意見を求められて、意見を述べた端と端に座った”統一協会”の夫婦が、「子どもたちにこんな教育されたら困る」と意見を述べ、そのほかの人たちがみんなで黙っていたら、どうなるでしょうか。

その小さな小さな意見でも、全くない意見の中で出た意見がそれしかなかったとしたら、行政はその意見を基に考えていく可能性は0ではありません。もし、教育委員会や、市や、県や、国が、【一部の偏った人たちの思惑のある意見】を基に、子どもたちに本当は伝えなければいけない教育を、学校から無くなってしまったのだとしたら・・・「わたしたちがみんなで黙っていること」の罪は本当に重い。

直接的にそういう判断にならなかったとしても、その一部の意見を聞いて、子ども自身が「そういうことは大人は教えてほしくないことなんだ」と思うかもしれない。大人も「確かにそうだよな」って感化される人もいるかもしれない。

だから、みんな黙っていたらいけない。

海外では意見を求められたとき、「自分の意見」が飛び交うと聞きます。
わたしは、このことって、本当に日本のいろんな問題を象徴することだと思っています。
日本は、「和を大切にする」文化です。「空気を読む」文化です。良い面もある大切な文化だけど、こう言うときは極めて悪い方に動くと思う。小さな小さな空気を読む行動や忖度が重なって、そうやって、その流れは加速されていくのだと思います。

すごい意見でなくても、「わたしはいいと思うけどなぁ」って意見でも、「こう言うことは伝えても良いけど、こう言うことは伝えてほしくないと思うけどなんで伝えるんですか」って質問でも何でも良いと思います。
何でも良いから、みんな、黙っていたらいけないんです。

聞いている人が「あーそう思う人もいるんだな」「いろんな考えがあるよな」と思えれば、きっと【一部の偏った人たちの思惑のある意見】で世の中の流れが偏っていくことは無いとわたしは思います。
行政だって、いろんな意見があれば、一部の意見に流されて行くことは無いはずです。
政治家(国会議員・県会議員・市会議員)からの影響は大です。なぜなら、政治家は市民に選ばれた人だからです。政治家の意見=市民の意見として行政は取り上げざるを得なくなるのです。だから、わたしたちは大人の責任として、(子どもたちは選びたくても選べないのだから)選挙でしっかり選びましょう。選挙に行きましょう!!!)

この世界は、いろんな人がいて成り立っています。どんな意見も大事な意見なのです。
大きいも小さいも無いし、深いも浅いも無い!
でも、発せられなければ、分からないし、取り上げようが無いのです。
何を思っているのかが分からなければ、お互いの意見に隔たりがあっても、折り合うところを見つけれることもできません。
【一部の偏った人たちの思惑のある意見】しか無かったら、少しずつ少しずつそちらに傾いていくのです。それが世の中で横行しているとしたら・・・

”統一協会”や加担した政治家へのバッシングが加熱していると思いますが、(政治家の罪はかなり重いのは間違いない!!!)わたしたち一人ひとりがそれを許す社会を作っている象徴的な話です。

わたしたちができることは、どんなに小さな場面でも、「何か意見はありませんか?」と問われたら、それを発していくことです。その場でできるに越したことは無いけれど、難しかったら、後で伝えるでも、手紙を書くでもいい。アンケートに書くでもいい。何年か経って、思うことがあったら伝えてもいい。まずは「何か意見はありませんか?」と問われて、「自分はこう思う」って意見を自覚することからスタートしたらいい。少しずつ、人に話すようにしたら、少しずつ自分の意見がすんなり出るようになって、発せられるようになっていきます。

日本では、学校でも多数決になってしまって、小さい意見は取り上げられないことが多くって、みんな「ダンマリが徳!」って染み付いてしまって、大人になると意見すら出せなくなってしまうと思います。わたしもそうでした。でも、発しているうちに、少しずつ、少しずつ、発せられるようになってきました(思いが溢れすぎて詰め込みすぎるけど・・・)。

社会を作っているのはわたしたち一人ひとりだってこと。
忘れてはいけないと思います。
遠い世界の話じゃない。一人ひとりの意見が、わたしたち大人がこれからの未来をつくっていくんだって自覚して、わたしはみんなで前に進んで行きたいです。

「何か意見はありませんか?」
ぜひ、このブログを読んだあなたの感想や意見を教えてください。
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\かつて子どもだった大人たちへ/
2021年春、
鹿児島県曽於市『財部町』に
みんなのひみつ基地Jya-Jyaをつくろうと思い立ちました。

まだまだ、手付かずのボロ牛小屋だけど、
来てくれる 大人 も 子ども も
「自分らしく」「好きなことをして」過ごせる場所になったらな。
そして、そんな場所がこの世界に広がっていったらな。

そんなふうに思っています。

 

わたしが家族と一緒にひみつ基地をつくり始めた経緯が
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はじめまして、公務員を辞めました  

 

その後2022年5月、
さんすう教室コポリをスタートすることにしました。
そのときの思いはこちらです↓

さんすう教室を始めました

夏休みが終わった〜2022

こんにちは
大瀬 優子です!
宮崎県都城市のお隣、鹿児島県曽於市財部町で
ひみつ基地Jya-Jyaとさんすう教室コポリをやっています♪

夏休みが終わりました!
もう草むらの草が少しずつ秋めいてきています。
あっという間。
親も子も楽しんだ夏!
子どもと朝から晩まで自由に過ごしてホントに楽しかったので、
すっごく名残惜しい!

あーまた親も子も社会に揉まれる毎日かぁぁw

* * *

夏休み明け9月1日。我が家の朝。
朝は、大体6時半頃に起きてくる不登校時小6娘ですが、5時前に起きて一言。
娘  「わたし宿題終わってないよ」
わたし「あ、そう」

「普段から宿題なんてしていないじゃないの」とそう思う母です。
それなのに、なぜか夏休みの宿題だけ夏休み初日から燃えている娘。
それなのに、夏休みが終わっても宿題が終わっていない娘。
何かと不思議です。。。

* * *

一旦、わたしの親としての宿題談。
思い返せば・・・
「宿題は親がさせなければ!」と思って親であるわたしが必死こいて宿題をやらせた時期もあったし、あまりに宿題が手に付かない娘に気づいて、宿題なんてなければ!と学校やもっと宿題を出してほしいという他の保護者さんを恨んだ日もありました。

でも、今はもう、先生が子どもたちのためにと出すならば、勝手に出してくれればいいし、もっとやらせたい保護者がいれば勝手に個別に保護者判断で増やせばいいし、(わたしとしては、宿題なんてむしろしない方がいいと思っているけれど)、その上でやるかやらないかは子どもによるし、子どもが決めていいと思うし、ちゃんとやったかどうかなんて、先生が追う必要なんて全くないと思うのです。無くしてくれて一向に構わないけれど、どうしても出さなきゃって思うなら、宿題なんて出しっぱなしにしたらどう?って思ってます。
提出義務を設けるから、先生は宿題を見なきゃいけなくて、チェックしなきゃいけなくて、負担が増える。それならもっと、子どもたちが真に学べる授業を充実することに力を注いでほしい。
(多分結果、宿題をやらない子もたくさん、もちろんやる子もたくさん出るでしょうが、それはそれで良くないですか?違って当たりまえ!一番平和な解決法だと思うんだけどなぁ)

* * *

既にわたしがそんな考えなので、
我が子が燃えている夏休みの宿題だけれども、算数や国語を中心にしたプリントの類は娘本人のやる気の分だけ終わったようです。(親から見ても、この子はそれで十分と思います。)

そのほか、「自由研究」やら「絵」やら、「習字」に「作文」、「俳句」に「朝食作り」など、いわゆる【お勉強】の類に入らないものは夏休みに入った途端、どれをしようかな、絵は3枚、自由研究は2つ・・なんて言っていて。やる気満々。

やる気があるのだから、つい、やってほしい!と思うし、いろいろと欲が出るのが親心なのですが、うちの子はコレまたやらないのです。
やりたいことがありすぎて、目の前に現れた楽しそうなことに心奪われて忘れてしまうタチです。

それなのに、マイペースでゆっくり。
手際がいいわけでもないまぁ普通の子です。

その辺はこの子の課題だと思います。
どんなふうに生きていくのかな。
こうやって娘の人生が垣間見えるのも夏休みのおかげです。
(夏休みの宿題の作文にも将来の夢を10個近く書いていました・・・
 そんなにたくさん、何回人生やる気なの!?そう思うけれど。
 それでもこの子なら、
 やってしまうかもなぁなんて本気で思っていたりする母です。)

* * *

さてさて、結局、夏休み最終日まで、
頭の中で「こうしようかなぁ」とぼんやり考えていただけの長女の「夏休みの宿題」。
夏休み最終日ですら、焦らない娘。
肝が据わっています。図太い!(羨ましい!)


ひとまず朝から「朝食作り」だけやっていたけれど、その後、ゆっくり見たい動画を見て、漫画を見て、合間にちょこちょこと写真を撮っているだけ。

わたしの用事があって、わたしの実家に行こうとしていたので、写真プリントだけコンビニに連れていくつもりが、実家に宿題を持って行ってやるというので、途中コンビニに寄って娘も一緒に実家に向かいました。
もう実家まですぐそこのコンビニに到着して、娘に声をかけると車の中で読んでいた漫画を片手に「あー!忘れたー」というのです。
何か一つ忘れたものでもあるのかなと思ったら、宿題に必要なもの一式忘れたとのこと。
えー!!そのとき、既に3時過ぎ。家に帰るのは少なくても夜7時ごろ。
どうすんのよ!!!(←パニックでこんなこと思っているけど、それは娘が考えることですよ。わたし!)
いろいろ想定の範囲内だったわたしも一時軽くパニックに・・・
(「寝ずにやる」というのは親として認めていません。健康が第一だから。)

でも、うちの子は小さな頃からそんな子。
本当にずっと変わらない。

* * *

そんなやりとりの中、わたしは娘のとある出来事を思い出していました。
数年前にとある企画で海にカヤックをしに連れて行ってもらったときに水着などを入れたバックをバックごと忘れたのです。
すっごく楽しみにして前日からバッチリ準備していたのに、一式全て忘れて行ったことを。

そのときのことは詳しく聞いていなかったけれど、なんだかふと気になって、海に水着を忘れて行ったときのことをもう一度娘に聞いて見ました。

・バッグごと忘れたのに気づいたのは、お菓子とかを買い出しするためにお店に寄った直後で出発からだいぶ経ってからだったこと。
・忘れたことを車の中でつぶやくと、車を運転して下さっていた方が「なんとかなるよ」と言ってくれて、すぐ他の話題で盛り上がったこと。
・到着して、あーどうしようと思っていたら、予備の水着がなぜか出てきて借りたこと。
借りた水着を「洗って返さなきゃな」と思ったけれど、いいよいいよと奪われてしまったこと。

そんな話を聞いて、あーこういう子なんだなぁ。
それでも、誰かに助けてもらえる子なんだなぁ。
と思いました。
忘れ物王で、マイペースだけど、
こうやって、人に助けてもらえる気質を持って生まれてきたんだなぁと。

だから、親として、
「忘れ物をしないように工夫はしなきゃいけないと思う。
それでも、どうしても夢中なことがあったりすると忘れてしまうことは、どんなに気をつけても、あなたにはこれからもたくさんあると思う。
その度にきっと誰かに助けてもらんだと思う。
だから周りの人を大切に、周りの人にいつも感謝しないといけないよ。」と伝えました。
 そしたら、「今まで、いろんな人に助けてもらったから、恩がいっぱいあるけど、もう会わない人もいるから返せないな」と娘が言ったので、
「そういう恩は、その人にじゃなくて、今度あなたの目の前に現れた困っている人に、あなたが無理せずできること得意なことをしてあげて返していきな。」と話しました。

* * *

結局、そんな話をしながら、一旦家に忘れ物を取りに戻りました。

一言付け加えておくと、正直最初、すっごく腹が立ちました。
わたしが一瞬パニックになって、台風前の蒸し暑さ(暑いとイライラが増すわたし)と、少し自分のせいでちょっと出かけるのが遅くなったのもあって、言わなくてもいいことをいくつか娘にぶつけてしまいました。

娘のマイペースも忘れ物も仕方がないとわかっているのに。
自分に余裕がなくなると、どんなに気をつけていても、
時々ひょっこりそんな悪い親がムクムクと起き上がってきてしまう。
それでも、わたしは娘のおかげで、娘がありのままでいてくれることで、いろんなことに気付けているだけのふつうのお母さんです。
今までもそんな後悔がたくさんあるのに、それでも、教わることばかり。
長女に対しては本当に反省することばかりです。

それでも、怒っているうちに、次第に笑えてきました。
冷静になって、親として伝えたいことを整理するための、そのための往復の時間だったのかもしれません。

「夏休みの宿題しようと思って出かけてきたのに、一式忘れてくるなんて、そんなことある!?」って言って、娘と一緒に笑い合いました。
わたしには想定も理解も全くできない事態だけど、自分のせっまい認識をぐいーっと広げてくれる娘にいつも感謝しかありません。

娘に「またこういうことが起こったらどうなると思う?」と聞いたら、
「今まで、何かあってもどうにかなってきて、どうにかならなかったことないから、どうなるんだろう」と言っていました。
そうかそうか・・・娘よ、いつもたくさんの人に助けてもらって生きているんだね。
周りの皆さま、これまで関わって下さった皆さん、本当にありがとうございます。

そんなありがたさに改めて気づいた夏休み最終日でした。

* * *

そして、9月1日の朝。
せっかく早起きしたのに、マイペースに動画をみて、漫画を見て、「あと1時間で学校だよ!」と声をかけるとようやく重い腰をあげて、宿題をサラサラサラと終わらせて、結局、一通り(課題プリントは一部で、結果「絵」は1枚、「自由研究」は1つでしたが)全て揃えて登校していきました。

もちろん、ここはこうした方がいいんじゃない!?と親として思うこともたくさんあったし、実際、最終日に終わらないだろうと思って、「今ここまで終わらせた方がいいんじゃない!?」と親としてアドバイスしたりもしたのですが、結局、自分の意志を貫いてやらず、焦るわけでも慌てるわけでもなく、自分が程々に満足する内容まで自分のペースで宿題を仕上げて、等身大で先生に「出来立てホヤホヤです」と言っちゃう我が子。
わたしにはそんな図太さ微塵もなかったから、尊敬してしまいます。

いかに、わたしが親として、余計な手出し口出しばかりしているか改めて振り返る2日間でした。そんな機会をもらえて有難い限りです。

そんなふうに、終わった我が家の夏休み。
名残惜しいけれど、また、来年も楽しみたいと、
今からわくわくしています♪

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\かつて子どもだった大人たちへ/
2021年春、
鹿児島県曽於市『財部町』に
みんなのひみつ基地Jya-Jyaをつくろうと思い立ちました。

まだまだ、手付かずのボロ牛小屋だけど、
来てくれる 大人 も 子ども も
「自分らしく」「好きなことをして」過ごせる場所になったらな。
そして、そんな場所がこの世界に広がっていったらな。

そんなふうに思っています。

 

わたしが家族と一緒にひみつ基地をつくり始めた経緯が
キニナル方はコチラから↓

はじめまして、公務員を辞めました  

 

その後2022年5月、
さんすう教室コポリをスタートすることにしました。
そのときの思いはこちらです↓

さんすう教室を始めました

 

 

 

 

なぜ学校は変われないのか

こんにちは
大瀬 優子です!
宮崎県都城市のお隣、
鹿児島県曽於市財部町で
ひみつ基地Jya-Jyaとさんすう教室コポリを
やっています♪

 


年内か年度内に、
映画「夢みる小学校」の自主上映を
たからべ!でやりたいと考えています。

わたしは、子どもたちの学びのベースである学校を変えたい!とそう強く思っています。

昨日、曽於市教育委員会主催で、教育映画自主上映研修会と称して開催された、「夢みる小学校」の上映会。
曽於市末吉町で開催され、そのことを知ったわたしは家族を連れて行ってきました!
(3月にガーデンズシネマでわたしと小6娘だけ観てたけど、夫にも観て欲しかったから!よかった!)

曽於市市議のせとぐちえりさんから教えていただいたこの上映会。
なんと発案者は教育長とのこと!!!!素敵過ぎる!
2部上映の1部には市長も来られていたそうで!

冒頭、教育委員会の方からこんなお話しがありました。

全国20万人とも言われる不登校の児童数。
学校が子どもたちに合わなくなっているのではないか。
学校が子どもたちが行きたいと思うような
魅力的なもので無くなっているのではないか。
どうしていくのがいいのか考えていきたい。
その一助になればと開催しました。

自戒も込めて、そうおっしゃっていました。

このことを聞いて、
そうだよな・・・行政も変わりたいんだよな。
ってすごくすごく!そう思いました。

* * *

わたしは以前、公務員でした。
福岡のとある市役所に勤めていました。
公務員だったころ、すごく思っていたことがありました。

行政って、弱い人のためには働けないんだなって。
声が大きい人の声に動かされているんだなって。

国も県も市も、
行政がやることは基本的に税金から支出されます。
みんなのお金でやるってこと。
だから、失敗できないし、みんなが納得できる使い方をしなきゃいけない。
説明のつく使い方をする必要があるってこと。

だからどうしても、前例主義になります。
今まで特に意見が出てこなかったことだから。
行政側は安心して取り組めるんです。

何か直接的な問題があれば、
変えていくとは思うけど、
特段、目に見えるような大きな問題がなければ、行政側だって、なかなか変えていくには勇気がいります。

もし、変えてしまって、少しでも問題が起これば、
「なんで変えたのか!?」
「誰が変えたのか!?」
「誰が責任を取るのか!?」
と言われてしまうから、これを変えようと思うと、変えようとするための根拠がいるんですよね。

そんな感じなので、
何か市民の意見や声みたいなものがあると、変わっていきやすい。
というか、変わらざるを得なくなる。

* * *

声が大きい人っていうのは、
行政側に話をしに行けるような力のある人のこと。
例えば、政治家。
議員さんなんて市民・県民・国民に選ばれているのだからまさにって感じ。
あとは行政に話ができるような間柄の人だったり、
行政にかけ合えば何かできると行動力のある人だったり、
行政が何をやっているか調べて意見できる力がある人だったり。
何か癒着してるとかそういうことではなくて、
行政で働く人だって人だから、目の前で訴えている人に心は動くわけで。
だから、そういう力を持っている人は、そういう力を与えられたのだから、そういう場があるのだから、社会の全体を見渡して、ちゃんと弱い立場の声も聞き取って、発してあげないといけないとわたしは思います。

本当は誰だって、声を上げていいと思うだけれど。
でも、
今の日本人はそういうことを小さいとき押さえ込まれているから、とてもじゃ無いけど、、、ってやらない人、できない人がほとんどだと思う。

事実、行政がいくらパブリックコメントをって情報を出しても、意見が上がらないことがほとんどです。

形だけのパブリックコメントになりがちなのも、このせいだと思います。
わたしは、意見が上がらないことを利用しているんじゃないかと思う場面をいくつか見たことがあります。
そんなふうに行政主導で進められた事業をいくつか見てきました。
本当にいいの?って思いながら、何も意見が出なかったんだからと進められていくのを。


でも、だからって行政が完全な悪だとも思いません。
志をしっかり持ってやっている人も現場もたくさんあるからです。
それも見てきました。
市民側は知らされていないって思うけど、行政側も広報やHPや市民ラジオやら色々駆使してやるし。
それでも、それもお金がかかるから、大々的にはできなかったり。

そんなふうに良い理由、悪い理由色々あるけど、いろんな事情で、一人一人がしっかり調べなきゃ、たくさんの人が知らないことや制度が本当にたくさんあり過ぎるのが行政の現状で、声が上がらなければ、一部の人の考えで、一部の声でいろんなことが決まってしまいます。
そんなふうに行政の仕事は進んでいるなというのがわたしが見てきたことなのです。

住民説明会なんてやっても、ほとんどの人はやってこないのです。
自己責任ってそれぞれに押し付けれることばかりで、みんな自分以外のことには関心がほとんど無いからじゃないかな。
それはわたしもそうなのだけど。

ほとんどの人は今の現状に大きな不満は無いのだと思います。
いや、ないわけでもないと思うんだけど、もうめんどくさいって思ってるんだと思う。
じんわりじんわり居心地が悪くなってきているのに、まー自分は大して困っていないと思っている。
だから、まぁいいやって黙っている。

そして、本当に困っている弱い人は、声を上げられない。。
生活に精一杯とか、目の前のことで精一杯とかで、そんな余裕は全く無かったり、声を上げればいいってことも知らないのだと思います。
どう声を上げればいいかもわからないのだと。
そうやって、ただただ我慢するしかない毎日を送っているんじゃないかと。
もしかしたら、
我慢しているって意識もないままに過ごしているのかもしれないと。

* * *

そんなふうに、この世の中は、
少しの 声が大きい人 と
たくさんの 黙っている人 と
これまた少しの 声を上げられない声の小さい人で
成り立っています。

声を上げられない人って、
生活が苦しい人もそうだし、
子どもや動物や植物なんかの環境だってそう。
わたしたちは、そういう直接声を上げないものをたくさん犠牲にしているってことだと思います。

* * *

小6娘が不登校になったころ。
学校のやり方と、娘の特徴というか特性というか、娘の個性が合わないんだなって思ったとき、
学校がもっと自由だったら行けるのに・・・
ってすごく思っていた時期があります。

学校が変わってくれたら。
先生が変わってくれたら。
って。

でも、今は行政も学校も先生も苦しい。
一番苦しいのは子どもたちです。
みんな変わりたいんだよね。
じゃ、なんで学校は変わらないのか。変われないのか。

わたしは、みんなの、世間の声だと思います。
特に大人の1人1人の意識や考え方なんだと思っています。
世間が、わたしたち一人ひとりの意識が変われば、
きっと学校も、社会も、誰もが生きやすく楽しいモノに大きく変わっていく!
そう思っています。

黙っていたらいけないんです。
どんなに小さな小さな不満でも、声を上げていかなきゃいけない。
自分で声を上げられなければ、隣の人に話して、聞いた人は議員さんに繋いであげるとか、そんなふうに小さな小さな声を上げていかないといけない。

学校でも、どうしても、正論と思い込まされている言葉にみんな飲み込まれてしまいます。
「隣のクラスは、こんなに授業が進んでいるんだから、平等に学ばせてくれ」
「子どもたちに学習習慣をつけるために、宿題をもっと出してくれ」
「危ないからやらせないでくれ」
確かにもっともらしいけれど、それはわたしたちがそれがいいのだと小さい頃から言われ続けながら育ってきたからそう思っているだけで、
「人は皆違うんだから、クラスごとで違って当然」とか
「宿題は少なくして、遊ぶ時間を確保したい」とか
「多少怪我しても、経験させたい」とか
理由が正しくないと思われるような意見も大事だと思うのです。
心の中でそう思っている人はたくさんいるんです。
だけど、声を上げない人はたくさんいるんじゃないかとわたしは思っています。
うまく言えないけど、そう感じている人はたくさんいるんだと。

でも、それが当たり前だと、結局、声を上げる人の意見に、先生も学校も流されてしまうのです。

どんなに正論(と思われていること)と逆行しても、先生が言うことと逆行しても、小さな小さな意見を声を上げていくことから、そんな声に耳を傾けることから、変わっていくのだと思います。
どんな意見も、いろんな人がやってくる学校には大切な意見だからです。
この社会もそう。
学校でいいと評価される人ばかりでなく、どんな人も大切にされないといけないんです。

大人が思う学校は、過去にわたしたちが通ってきた今までの学校です。
我慢して、先生の言うこと聞いて、やりたくない宿題をして、今頑張らなきゃ未来が開けないって思わされてきた学校。
それが当たり前だからって思っていて、変えた方がいいってことすら大半の人は思っていません。
そう思わないように、わたしたちは育てれられてきたんです。

* * *

映画「夢みる小学校」は、大人も子どもも行きたいと思うようなそんな夢みたいな学校が本当にあるんだと言うことを教えてくれます。
そして、それでいいと、それがいいと思えます!
どこか遠くの私立の学校だけにできることじゃない。
わたしたちの近くの学校もそうなれるって教えてくれるんです。

だから、わたしはたくさんの人に見てほしいのです。

* * *

市議せとぐちえりさんの娘さんが映画を見て「うらやましい〜!」と言っていたと投稿されていました。
娘さんとはわたしも面識があって、普段関わらせてもらっています。

そうなんです!
知ったら、みんなそっちがいいって思うはずなんです!


うちの小6不登校娘は本当に、そんな生活をしています。
わたしの目の前で!
そして、そんな子どもたちをわたしはたくさん知っています。

でも一方で、わたしの目の前で、
「学校に行きたくない」「宿題やりたくない」「わからない」「わたしにはできない」と言う子どもたちもたくさんいます。
そんな学校があると言うことさえ、わたしたち大人も、子どもも知らないのです。
わたしだって、「学校のような世界が全てだ」と半ば思って、30代前半まで生きてきました。
なんでかわからない、生きにくさ、苦しさを抱えながら。

映画の中で、
「夢みる小学校」の学園長である堀 真一郎さんが
「わたし、この学校にいると、わたしでいられるの」
と言う子どものことを話しながら、
「自分が自分でいられない と言うことは一番辛いことかもしれない」
とおっしゃっていました。
わたしは「自分が自分でいられない」まま、30代前半まで生きてきたんだな。
だから苦しかったんだってそう思いました。

そんな思いを、子どもたちにはして欲しくない。
遠回りせずに、その子その子がその子らしく生きていけば、きっと素晴らしい能力がこの世界に満ちてくるのだと思います。
そうすれば、きっと自ずと社会も素晴らしいものになるとわたしは信じています。

「それぞれの子どもがそれぞれの子どもらしく」
 いられる学校に是非とも変わっていってほしい!
 そして、それを望む世の中になったら!
 それを望む大人が、そんな声を上げられる大人が増えたらなと思っています。

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\かつて子どもだった大人たちへ/
2021年春、
鹿児島県曽於市『財部町』に
みんなのひみつ基地Jya-Jyaをつくろうと思い立ちました。

まだまだ、手付かずのボロ牛小屋だけど、
来てくれる 大人 も 子ども も
「自分らしく」「好きなことをして」過ごせる場所になったらな。
そして、そんな場所がこの世界に広がっていったらな。

そんなふうに思っています。

 

わたしが家族と一緒にひみつ基地をつくり始めた経緯が
キニナル方はコチラから↓

はじめまして、公務員を辞めました  

 

その後2022年5月、
さんすう教室コポリをスタートすることにしました。
そのときの思いはこちらです↓

さんすう教室を始めました